インターネットごみ屋敷の主が「個人サイト」を語るとき
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サイト制作は3回以上、現サイトの維持は2年3ヶ月の西村虹架が「個人サイト」について語ります。
駄文です。
ターゲット層があるとすれば個人サイトが好きで、同志の気持ちが気になる人。
ブログ放置しすぎだったのでにぎやかしに書いています。
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サイト制作は3回以上、現サイトの維持は2年3ヶ月の西村虹架が「個人サイト」について語ります。
駄文です。
ターゲット層があるとすれば個人サイトが好きで、同志の気持ちが気になる人。
ブログ放置しすぎだったのでにぎやかしに書いています。
個人サイトの強みのひとつは、好きなレイアウトで作品を展示できることだ。
そこで誰かが問いかけた。「それも作品の一部なのか?」と。
私は考えた。なんか違う気がする。
確かに自分のサイトは装飾的なほうだし、スクラップブックから連想するアナログな温かみも作品イメージの一部ではある……けど。
むしろ、「ホームページは唯一の『完全版作品』で、個々の作品はその断章にすぎない」というのが正しいのかも。そう思った。
私にとって作品は「つなぎ合わせることで『作者が何者だったのか』を知ることができるピース」みたいなイメージがある。
そして死後も私はばらばらになった複製体の形で世界に存在し、いつか誰かが繋ぎ合わせて私は私に戻るのだ。その人の心の中で。
夢がある話じゃないか?
サイトデザインが1冊のノートなのが深みを増した。エモい。
そう思うと、デジタルデータのほとんど全てを設置できる個人サイトは自由ですばらしい。
Twitterに作りかけの曲を投稿するために動画に変換してた時間など無意味の極みである。
MP3ぐらい投稿させてくれてもいいのにね。
個人サイトはなんでも置いていい上に、好きなだけ分類できる自由もある。
日記のせいで絵が流れるから……と、絵のためにおいしかったパンケーキの画像を消さなくていい。
pixivだとなんとなく恥ずかしくてつけられなかったオリキャラの名前のタグだって、個人サイトならつけ放題。見やすい。
当サイトにはイラスト、漫画、音楽、フリーゲームの作品がある。
作品ではないが、ブログや発行物のまとめ、オリキャラ紹介、エイプリルフール企画などもコンテンツだ。
うちのサイトには3DCGコンテンツはないが、お友達が回せる3Dデータをサイトに載せていたのはインパクトがあった。私もやってみたい。
あと、鯖の容量が有り余っているのでブラウザゲームが作りたい。
個人サイトは自由だ。犯罪とか鯖の規約違反とかを除けば。
自由なのでどんなコンテンツを置いてもいい。Twitterやpixivに流すのはためらわれるような酷いらくがきでさえ。
私のらくがきページとかそんな感じだし、昔ハマってた二次創作のページとかもめちゃくちゃである。
自由だ。
私には先に述べたように自分自身を丸ごと残したいという欲求がある。それに訪問タイミングのせいで見れたものが見れず閲覧者を魚拓サイトに向かわせるのは忍びない。
だから恥ずかしいような作品も置いているわけなんだけど。
自由な選択の結果なんだけど。
なんでもできる世界だからこそ、理想が自分を縛っているような、不自由さもある。
なんでも可能な世界は、無制限に全てが手に入るわけではなく、あくまでそれは選ぶ自由があるだけでしかない。
そして私はより多くの作品を残したいという選択肢を選んだのだから、最高の作品だけのサイトは諦めなくてはならない。
ああ、これが自由だ。
古き良き個人サイトを懐かしむ流れは、嫌いではない。むしろ好きかも。
それはフリーゲーム「Ayaのホームページへようこそ!」だったり、相互リンクの「ゆゆずのホームページ」さんだったり。愛を感じる。
私自身も「子供のころ手が届かなかった個人サイト文化」を自分なりに再解釈してやっているところはあると思う。サイトの装飾性の方向は違うし、カウンターとかは置いてないけど……。
昔の自分にとっては、ロリポップの缶ジュースくらい安いプランも手の届かない贅沢品だった。
懐かしむ気持ちには愛がなければいけない、と思う。
黒歴史とイコールで結ぶような物言いはよくない。
いつも言っているのだが、個人サイトという概念は「家」のようなものでしかなく、家は今も昔もある。
昔の家が、遺跡が現代から見て変だからって「家」を笑ってたら、それを聞いた現代の一軒家住みは微妙な顔をするのだ。
それはそうと現代の「家」は凄まじく進化していて、そろそろ私も老害になりそうだ。
具体的にはSNSリンク集を飾ったようなサイトを理解することができない。
それは家じゃなくて、まるでどこでもドアじゃないか。
どこかひとつに全てが集まってる安心感は、個人サイトに必須ではないのか!?……と。
まあ、私もBOOTHで通販してるから全てが集約できてるわけではないのだけど。
個人サイトを作りたい人が現代にいるのはいいんだけど、そういう人たちに疑問がある。
それは作りたいだけ・作っただけで、読んでないってことがあるんじゃないかってこと。
まるで「小説家になろう」で小説を書いている人が他人の小説に興味ないような、そんな状況。
個人サイトには閲覧者が必要だ。
個人サイトを読んでますって人は、個人サイトそのものより可視化されづらい。
「虹のきれはし」の1日の平均アクセス数は11らしい。この中にはIPアドレスが不安定で除外できない自分自身が含まれる。
さすがに自分が11人に分身してるとは思えないので、うちの閲覧者はけっこういるようだ。ありがたいことです。
私は1つのサイトに日参し、1つのサイトには3日に1回くらいの頻度で通っている。
それらのサイトの魅力は日記だ。ブログというよりはミニブログというか、Twitterに近いノリの。
更新頻度は正義で、ときに作品以上に日記は魅力的だ。悔しいがTwitterは正しい。
だから私も「メモ(てがろぐ)」をもっと書かなきゃと思ってはいるんだけど、書きたい気持ちにムラがあって困っている。
古き良き個人サイトの文化をイメージして当サイトがやっていることといえば、エイプリルフールだ。
2025年は虹のきれはしマスコットキャラクターの牧場サイトになるという「うしむら牧場」、2024年は同人誌「どうぶつのこうぶつ」の妄想コラボカフェ「どうぶつのこうぶつコラボカフェ」のページを公開した。
「うしむら牧場」ではうしちゃんのイラストガチャが引けるページがあるなど、年々進化している。
今もいろんなアイデアを考えている。
「虹のきれはし」の対極である「黒のかたまり」になり、モノクロのサイトになって白黒の絵だけをギャラリーに載せるとか。
うしちゃんが焼肉屋のマスコットキャラクターになるとか。
西村虹架専用Wplaceを作って別海町に牛を描きまくるとか。
ネタバレか?これ全部やるとして3年もかかるけどな。
エイプリルフールに全力ではしゃげるのはサイト持ちの特権だ。
TwitterではIDを変更して元IDを乗っ取られたり、名前やアイコンを変えたことでリムーブの対象になるなどトラブルも多い。
そもそも工夫できる箇所が少ない。
個人サイトであれば、サイトでできること全てを表現に使える。総合芸術だ。
ドデカい花火を年度始めの頭に上げろ!
自分のサイトにポートフォリオ代わりのギャラリーとメールフォームがあるからといって、依頼が舞い込むわけではない。
価値ある情報をブログに集めても、検索に引っかからなくて誰も読まない。
個人サイトではそれらは当たり前のことで、どうしようもない。
個人サイトを作って人生が変わることはたぶんなさそう。
だが、そんなことはどうでもいい。
ホームページには自分の集めた輝くものだけがある。花の咲く庭や宝箱のような宮殿を毎日好きなように眺める権利がある。
客観的に見たらごみ屋敷かもしれないけど。
私は創作をしているとかなり承認欲求に囚われやすいタイプで、よく苦しんでいる。
だけど「ホームページ運営活動」については、自己満足で楽しくやっている。
同人誌の発行と違って、かけたお金が戻るかどうかなど考えたこともない。(広告貼ってないから戻るわけもないが)
そういう意味では「ホームページを作りたい人におすすめすること」はローカルサイト作りかもしれない。
PCの中だけのサイトを楽しめて、出先でも見たいと思ったときに公開すればいいのでは。自分のために。
個人サイト作りは楽しい。
楽しいのだけど、大体の人にとってはコスパの悪い遊びなんじゃないかと思う。
この記事は元々「個人サイト布教記事」を書こうと思って書いた。
当たり前のことをうまく書くのは難しかった。
私は本能で個人サイトが楽しいのだ。